私たちが訪れた当時、まだチェコスロバキアはひとつの社会主義共和国でした。国境を超える列車は途中で車両の交換があり、全員がいったん外へ出て別の列車に乗換えさせられる、というような状態から私たちのプラハ訪問ははじまりました。夕方近く着いたプラハ駅から、さっそくホテルを探しにチェドックという公共の案内所へ行ってみましたが、そこにいた大柄の女性が紹介するホテルはモダンな「インターコンチネンタルホテル」だけで、事前にこちらが候補にしていたホテルについて尋ねても、そのようなホテルは知らないと冷たい対応です。仕方なくチェドックをあとに、私たちは候補のホテルが建っているとおぼしき辺りを探しに出かけ、結果として目当てのホテルは見つかり、幸い部屋もとることができましたが、ここまででプラハの政治的な印象はかなり悪いものになってしまいました。ホテルの受付はたいへん親切でしたが、そこに入っている外貨交換の銀行職員の女性はチェドックで対応してくれた女性同様不愛想で、公共に関わる職員たちの心の余裕のなさ?を感じます。
このホテル・ヨーロッパは雑誌ブルータスが「3都オペラ」としてウイーン・プラハ・ブダペストを扱った特集号(86.4.15日号)に紹介されていました。この記事の影響でプラハを訪ずれることにしたのですが、当時、チェコスロバキアの旅行情報誌はほとんどなく、たいへん貴重な情報源だったので、その後、プラハを訪れた事務所のスタッフもこの雑誌をわざわざ持参したほどです。
ホテルは建築としては素晴らしいものでしたが、写真からは伝わらない部分で、設備は古く、お湯が十分に出ないことは残念でした。私たち旅行者が街を歩いているとすぐに外貨獲得のために換金をたずねる人が近づいてきて、経済的な貧しさはすぐにわかります。一方、当時一般的になりつつあった買物を入れるビニル袋のサービスはなく、みんなマイバックを持参していたのは、今からみるとたいへんエコロジカルでした。
それでも、第2次世界大戦の戦禍を受けずに残っている市街の風景は美しく、また、一般の人々の対応も親切で、少ない日数でしたが大いにその素晴らしさを満喫しました。
プラハ自慢のピルスナ―ビールの味も格別で、少し黒っぽいそのビールは泡自体も濃厚で驚きました。苦労した旅行ほど記憶に残ると言いますが、まさにその通りで、前日までのウイーンでの記憶は曖昧なのに、プラハでの苦労の体験は活き活きとよみがえります。
プラハの街の魅力は、オットー・ワーグナーがウイーンの街で関わった建築と同じく、適度な装飾性をまとった建築にあふれていることです。それらが醸し出す物語性が、テーマパークのような作り物ではなく、永い時間の中で存在し続けている質感をまとっていることでしょうか。ここまで書いて、チェコの亡命作家、ミラン・クンデラが1984年に発表した「存在の耐えられない軽さ」という小説のタイトルを思い出しました。プラハを舞台にソ連の傀儡政権下でゆがめられた人々の精神と生活、監視社会の不安を淡々と描いている小説のタイトルが、プラハの街のもつ濃密な存在感と対比して腑に落ちます。
特定の建築・風景が特に素晴らしい、ということではなく、まさに街全体が豊かな物語を語り続けていると言ったら良いでしょうか?
ヨーロッパの街の変化は緩やかだと前回述べましたが、チェコスロバキアはチェコ共和国とスロバキア共和国に分かれ、ともに民主化されたことで多くの外国資本が入り込み、今のプラハの街をネット上で見るとF・ゲイリーやJ・ヌーベルの現代建築が建ち、一方ホテル・ヨーロッパは、建物はあるものの閉鎖されているようです。街には、今でも確かな物語性の存在を感じられるのでしょうか? 35年前の経験はたいへん貴重なものになってしまった気がします。 (ht)