アメリカ西海岸の都市 シアトルとロサンジェルス
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はじめてアメリカに訪れた1993年の翌年1994年8月、今度は西海岸に訪れる機会が巡ってきました。アメリカ建築家協会AIAのシアトルでの集まりに参加することになったのです。会議やパーティへの参加が何日間かあったのですが、幸いなことに、以前、日本の伝統建築を学びに私たちの大学に来ていた留学生が地元の建築事務所に在籍していて、私たちを泊めてくれ、プライベイトで市内をいろいろと案内してくれました。
まだ、イチローはマリナーズに在籍していなかったので、シアトルという都市はそのときはじめて認識しました。日本からは北アメリカ大陸への玄関口のような場所で、北はカナダ国境に近く、元々、豊かな水産資源や森林資源を活かして生活を送るネイティブな人々の文化が息づいていたようです。会議の期間中にはそのネイティブな人々のショウを見ながら食事をするようなレストランにも連れていかれました。
都市部の海沿いには大きなマーケットがあり、海産物を中心に食材を提供するとともに、それらを利用したレストランも豊富で、多くの旅行者で賑わっていました。驚いたのは、そのマーケットのすぐ裏は海に面していて、近くでは釣りをしている人々が大勢いたことです。中には大きなマス?を釣り上げている人もいてビックリです。
都市風景と自然豊かな森や湖が混然一体になった美しい街です。
プライベイトで案内された近くの住宅地区は、静かな水辺に面した2階建て木造の住宅地で、確かベネチア地区と呼ばれる場所でした。漁師町というわけではなく、水辺での生活を楽しみたい人々のための地区で、ちょっと日本では見かけないテーマパークのようなところです。ここでは、人々は小さなボートを操って日々の生活を楽しんでいるのかも知れません。
会議が済んだ後、私たちはふたりでロサンジェルスに数日間滞在しました。足もなく、ダウンタウンを歩いて巡っただけなので、印象はあまり良くありません。
その頃のロスのダウンタウンには白人はあまり住み着いていなく、代わりにヒスパニック系と呼ばれる人々が、賃料が安くなった街に多く移り住んでいました。白人の多くはハリウッドなどの郊外の一戸建てに住み、車でダウンタウンに仕事に出るという生活を送っているようです。そのせいで街のあちこちには巨大な露天の駐車場が見られます。
道を歩くと通りに面する多くの商店は開店中でもルーバー状のシャッターが閉まっていて、客が近づくと店のガードマンが素早くシャッターを開けて客を通し、またすぐ閉めるという状態で、街角には警察官も立っていて治安の悪さが感じられます。
私たちはリトル東京からダウンタウン中心のブロードウェイという通りまで、「ブラッドベリービル」を目指して歩いていましたが、誰か後ろからつけてきていないかなどと心配しながらの結構な緊張感の中でした。
そのビルは映画「ブレードランナー」の舞台にもなった有名なビルで、吹抜部分の天窓や階段手摺に見られるアイアンワークが繊細で美しかったです。見た甲斐はあったのですが、緊張感の後に一瞬心がほどけ、建築に魅入った後は再び緊張感の中への突入でした。
「ロサンジェルス」というタイトルの新書を読んだら、白人たちの郊外への転居によって街がさびれてしまわずに、ヒスパニックの人びとに利用されることで活気を取り戻していると好意的に書かれていましたが、私たちが経験したのは過渡期の不安定な時期だったのかも知れません。
その他には磯崎さん設計のMOCA美術館、その建設中にゲイリーが設計した仮設の美術館跡、ロス・ロヨラ法学部キャンパス、ゲイリーの自邸などを見て廻りました。