スペインのイスラム建築3-華麗な装飾
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イスラム建築は、優雅なアラベスク模様がその代名詞となっているほど装飾に富んでいます。特にアルハンブラ宮殿などの壁面上部や天井面に繰り広げられる細かな漆喰模様の連続は、緻密なレース細工のようで、いったいどのぐらいの人々が何日間かけて仕上げたものなのかと、つい考えてしまうような密度の高さです。
「アルハンブラ物語」の中でW.アーヴィングはD.アーカート「ヘラクレスの柱」からの引用で、「モリコス(モーロ様式の)建築に関する覚書」としてその謎解きをしてくれています。これは、何種類かの型を作ってその中に石膏を流し込み、できた焼き石膏板のパターンを組合せた、たいへん合理的なものなのだ、というようなことを書いています。しかし、わかっていても実物を見るとその緻密な細部や、どこまでも繰返される密度に感嘆してしまいます。ちょうどペルシャ絨毯を織る人々のように、その作業が身体化されていて、ほとんど無意識的に作業が進み、どんどん緻密な柄ができていく感じなのでしょうか。
カトリックの大聖堂などにも細かな装飾が施された壁面や天井面を見ることがあります。多くの人物像や天使像、図案化された植物などで埋め尽くされたそれらは、同じように驚異的な人の手とかけられた時間の長さ、密度を感じますが、どうしても装飾過多という印象が勝ってしまいます。抽象的なアラベスク模様はなぜそのような否定的な印象をあまりもたらさないのでしょう?具象的な天使や聖人など意味が強く込められた図像への個人的な反発なのでしょうか・・・。
先の覚書の中には壁面下部(一部床まで)を占める化粧タイルについても解説されています。それらはオリエントに起源があり、涼しさ、清潔さ、虫がつかないことなどが蒸し暑い気候のもとで理にかなうものだったということです。確かに人々の身体に近い部分では、そのような快適性が特に求められたのでしょうが、そのパターンの緻密さは合理性とは関係なさそうです。さまざまな色タイルを加工し、組合せることで幾何学的な模様をつくりだす嗜好性は、表面をどこまでも埋め尽くしていく「空白への恐怖」があるのでしょうか。
「アルハンブラ物語」の中には建物にまつわるさまざまな物語が収められています。それらの多くがモーロ人の不思議な魔術や隠された莫大な秘宝に関するもので、建物の華麗な装飾を眺めていると、そのような物語にまことに相応しい舞台だなあと感じ入ります。(ht)