2015年 04月 27日
沖縄のひかり
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先日、沖縄に行きました。
建物の視察が目的でしたが、同時に斎場御嶽(せーふぁうたき)や名護市庁舎なども久しぶりに見てまわりました。
有名な斎場御嶽は岩が三角形の空洞を形づくる独特な場所で、いかにも特別なパワースポットであることが感じられますが、岡本太郎が著書「沖縄文化論」の中で書いているように、御嶽は本来、村々の東にあり、何もない、密集した木立の中でそこだけがポッと空けて明るくなっている聖なる場所で、竹富島の御嶽はまさにそうでした。斎場御嶽の三角形の空洞は、本島の東にある神の島「久高島」を拝礼するための場所への入口なので、別格の尊い場所なのでしょうが、そこへの道筋には同じように光だけが印象的に降り注ぐ祈りの場所がいくつかありました。ここでは、大地に降り注ぐ光こそが尊い存在だったようにみえます。
竹富島へ行ったときには道が印象的だと書きましたが、道は、沖縄のような密林では、光の道でもあるし、密林を抜けた先に見える海原は光が溢れ、別世界への入口を予感させたのかも知れません。
そう考えると、確かに沖縄の伝統的な民家はシンプルな寄棟の屋根があり、その下に開け放たれた内部空間が広がるだけで、現在のように「光を楽しむ」パーゴラのような装置はありません。今では沖縄建築の代名詞のように使われる花ブロックやルーバーを通した光と影の空間は、現代人が光への、恐れを含んだ敬虔な思いをなくしたことで成立したものかも知れません。
光を楽しむパーゴラのある、いくつものテラスで構成された名護市庁舎は、象設計集団の設計で1981年の竣工ですから、すでに34年の月日が流れているにもかかわらず、うまく歳を重ねているようにみえました。ところどころにはカビのような汚れが見受けられ、決して良くメンテナンスされているとは思われないですが、全体がさまざまな細かい建築要素の組み合わせで出来上がっているため、それらの汚れが目障りではなく、まぎれてしまっています。
真っ白で要素が少なく平滑な近代建築だと少しの汚れが目立ってしまうものです。もともと、近代建築のひとつの象徴として「清潔」という衛生の概念がありますが、何の汚れもない無垢な白い箱は、その清潔さを保つために大変なメンテナンスの労力とコストが必要です。また、気候が湿潤な日本の風土では、多くの建築家たちがディテールと素材の工夫によって汚れの付きにくい近代建築を表現してきました。しかし、名護市庁舎は汚れとうまく付き合ってゆく解法を示してくれているように感じます。これは、今後の都市や建築と自然との関係、人間と他の生物たちとの関係にも当てはまる大事な考えになるようにも思います。一方的に排除するのではなく、部分的には共存を受け入れ、より豊かな世界を模索する道です。それには昔のように自然や他の生物たちを恐れたり敬うような気持ちがもう少し必要なのかも知れません。(ht)
by wstn
| 2015-04-27 18:21
| ht
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